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    と、房一はほつとした面持になつて云つた。

    と、無邪気に、呆あきれたやうに云つた。

    「な」の字さんは翌年よくとしの夏にも半之丞と遊ぶことを考えていたそうです。が、それは不幸にもすっかり当あてが外はずれてしまいました。と言うのはその秋の彼岸ひがんの中日ちゅうにち、萩野半之丞は「青ペン」のお松に一通の遺書いしょを残したまま、突然風変ふうがわりの自殺をしたのです。ではまたなぜ自殺をしたかと言えば、――この説明はわたしの報告よりもお松宛あての遺書に譲ることにしましょう。もっともわたしの写したのは実物の遺書ではありません。しかしわたしの宿の主人が切抜帖きりぬきちょうに貼はっておいた当時の新聞に載っていたものですから、大体間違いはあるまいと思います。

    と、盛子は大げさに滑稽な顔をしてみせた。

    小谷が対岸から流れを指しながら叫んでいた。房一の竿の前を渡渉とせふするので承諾を求めたのだ。

    銅山が廃坑となり、時代が移ると共に、他所の町村が発展するのに河原町だけは産業的に衰微し、とりのこされたが、以前の天領気分は今でもなほこの町を中心とする一廓に残つていた。それは近くの村々から「河原風」と呼ばれていた。今でこそ「無暗と気位ばかり高くて能なし」の意味であつたが、当の河原町の人々は、それがどんな意味に使はれていても、腹の中では漠然とした自己尊敬の念を感ずるのであつた。

    聞き慣れない太味のある声が立つた。直造は立ち上りかけた膝を又ついて、ふり返つた。彼は席のまん中近くへ進み出ていたので、声の起つたずつと下席の方はよほど努力して身体を捻ぢ向けねばならなかつた。長時間の主人役で疲労して、いくらかうすい曇りのできた直造の眼は、やうやく声の主である高間房一の赤黒い、円つこい、だが明かに普通でない硬は張つた顔と、その上にきらめく強い眼の、色とを見た。瞬間、直造の端正さは崩れ、一種の狼狽と不安が走つた。

    「ふうむ。いや、よからう」

    「いつから――?」

    「高間さん、ひとつ何とかして引上げさせて下さい。このまゝでは――」

    老父の道平が卒倒した今はちやうど房一の忙しい時期だつた。と云ふのは、彼の患者の大部分を占めている農夫達は農閑期に入ると、それまでがまんをしていたために急に病気になつたり、ぶり返したりするのであつた。道平はここ三四日の間が危険期だつた。房一は殆どつき切りで、間には何度も家の方へ来る患者の診察にも帰らねばならなかつた。

    彼の現実的に鋭い頭が働きをとめたわけではなかつた。又、あの身うちから溢れるやうに頭を持上げて来る野気を失つたわけでもない。それらはたゞ、急がば廻れといふ風にどつかりと彼の中に腰を下し、緩漫な暢のびやかな四囲の空気と調子を合せることを覚えこんだのである。もともと彼の野心といふものには格別はつきりした目標があつたのではない。漠然とした、無意識のうちに魂の孕はらむ夢といつた風なものだつた。が、今やその魂はどうにか方向を見つけ、その形づくらうと欲しているものを予感し、穏かに、着実になつた、といふやうに見えた。

    「御病人はどちらで?」

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