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「をかしな男だな」
「いや、あの晩の、ほんの三二日前です」
午近くなつて空気は温められてどんどん上昇し、どこも冴えてきらめき、何か軽い気を遠くさせるやうな気配は、あのひつきりないざわめきによつてよけい強くなつた。誰も彼も上気し、家の中に落ちついてはいられなかつた。盛子は長い小豆色のぼかしのある羽織の下に、ふくらみのある身体を巧みに隠し、河場からやつて来た義母と並んで戸口に立つて通りを眺めていた。今さつき山車だしがそこを通つたばかりであつた。山車の屋上では狐忠信の人形が黒い眉を上げ、口をへの字に曲げ、腕を構へて造花の中に立ちながら、揺れて思ひがけない風に頭を振り、提灯と小旗の下を過ぎて行つた。と思ふと、そこの曲り角のあたりで拍子木の音が起り、山車はとまつて、乗つていた踊り子が山車についた舞台の上で扇をかざし、きつかけを外して囃はやし方かたをかへりみて恥しげに笑ひ、あらためて又とんと板を踏み鳴らし、何かの踊りをはじめるのが見えた。間もなくそれも遠くへ行つてしまつたが、人はざわざわ行つたり来たりしていた。そこらでも、こゝらでも、遠くでも、絶えずどよめきの音が聞えていた。
風呂にゆつくりとつかつた。
もともと口下手ではあつたが、まだ舌がもつれる風で、一口ごとに息をついて云つた。
「ふうん。気楽な身分だね」
「さうです、一寸」
「いや、あれは私が勝手に頼んで来てもらつたんですからな、御心配はいりませんよ」
と云ったそうだ。
「それで、何かね。ドイツ兵は徒歩てくで通るんかね」
風はすつかり途絶えていた。
「やあ、しばらくで」
「さうですか、さうですか。それは、いや、ごていねいなことで」